母里焼の歴史
母里焼の成り立ち
母里焼は、文化文政年間に母里藩の藩士・松原久兵衛が石原善右衛門を招き陶土を発掘させ、布志名より陶工を雇い入れ、弘化元年(1844年)に日用品を焼きはじめたのが母里村(卯月大谷)窯業のはじまりとされています。その後、良質な陶土の採れることから多くの窯元が開業しましたが、明治期にはほぼ廃窯され、現在の豊岡の母里焼の一軒が残りました。
現在の母里焼は、明治22年(1890年)に稲垣茂平の子・利市が窯を築いて独立(稲垣窯)し、主に日用雑器を焼きました。その後、友吉、助市が引継ぎ、台所用の荒物、植木鉢や徳利、食卓用品から抹茶茶碗や花器などの美術品も焼き窯元を発展させました。戦後、稲垣宏は若くして窯を引継ぎ、生活雑貨や民芸品そして、青釉のボテボテ茶碗や丼、飛びかんなの雪平や櫛模様の皿類など、母里焼の復元にも尽力しました。
商品について
やきものの特徴
母里焼の特徴は、出雲地方で最大級の7連の登り窯で焼成されたやきものです。母里で採れる粘土から釉薬、松割木の燃料まで、ほぼ地元の天然資源を生かし、自家生産で作られる民窯として知られています。年に1度、窯焚きされる登り窯のやきものは、窯変による質感と素朴な釉薬とで味わい深い器が好まれています。
現在の窯元は、後継者不在で残存する工房は老朽化が進んでいます。一方で、地元の団体が被災を受けた登り窯の修復を支援し、母里美術同好会や陶芸教室が協力し、年に1度の窯焚きイベントが行われています。